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利休から三千家(さんせんけ)設立まで

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にっこにこ太陽古美術店イメージまずは利休の師匠 武野 紹鷗(じょうおう)

茶道は鎌倉時代ごろ日本に入っていたのではと思われまれ、茶道の文化はそれなりに広まっていたのですが、武士や公家など貴人が主でしきたりや方法などもバラバラだったところを、一つの文化まで完成させてのが千利休ですので、そこからどうやって今に至るかをまとめてみました。

まず、利休が紹鷗に弟子入りした時の逸話が、弟子入りをお願いに行った時入門テストとして庭の掃除を命ぜられました。

その時利休は、綺麗に落ち葉などを掃き取りゴミ一つ無い状態になったところで、徐ろに木を揺さぶりました。

それを見た紹鷗は「どうして綺麗になった庭にまた落ち葉を落とすのか」と問うたそうです。

すると利休は、「確かに落ち葉が無い方が綺麗ですが、そんなのは自然では無い」だから一度穿いた庭に落ち葉を落として自然な庭にしましたと答えたらしい。

その感性を感じ取った紹鷗は即座に弟子入りを許したと言われています。

なかなか凡人の私たちにはわからない感性ですが、それだけの人だったので後世に名前が残っているのでしょう。

そんな利休には二人の息子がいたと言われております。

一人は先妻・宝心妙樹との間に生まれた道安

二人目は後妻・宗恩の連れ子の少庵で、二人は1546年生まれの同級生だったそう。

利休の再婚は57歳の時でその時、道安と少庵は32歳の時なっていたので、道安にしてみれば複雑な心境だったでしょう、その道安の名前は利休の茶事の記録にないことから、一時期家を出ていたと考えれられています。

時は経ち、利休は秀吉の命から自害することになるのですが、再婚したことで継承関係が複雑になったのですが両方の息子に親として愛情をうまく表現していました。

利休の自害する前、利休遺偈(りきゅうゆいげ)と言われる遺書にはこう書かれていたそう。

元々、兄弟の軋轢を避けるため少庵を京都紫野の前の大徳寺門前に移り住まわせていたので、この家屋敷は少庵に譲りその他の財産は道安に譲るというどちらの息子の立場も明確にし、またどちらの息子にも親としての愛情をしめした。

これが堺千家と京千家の始まりとなったのです。

にっこにこ太陽古美術店イメージ堺千家

利休は元々大阪の堺の人なので息子の道安は堺に住んでいました。

利休の自刃後、四散して道安は、飛騨高山の金森長近の元に身を寄せたた言われたり、四国や九州を放浪していたとも言われているがその真相は明らかでく、苦労していたことには違いない。

道安は一族の本家筋ですが自らの運命に翻弄されていたのと、自身に子供がいなかったのもあり道安の死後は絶えてしまった。

にっこにこ太陽古美術店イメージ京千家

利休に京都紫野の大徳寺前の門前に屋敷を作ってもらいそこに移り住んだのが少庵。

少庵は会津若松の蒲生氏郷の元に身を寄せ、茶頭として茶道三昧の日々を送っていたという。

また結婚もしており、妻は利休の娘とも言われています。そして二人の息子も生まれその中の一人が宗旦とったのです。

何年か経ち秀吉から放免を受けることで道安・少庵とも京都と堺に戻ってきました。

その後、道安は秀吉の茶頭に復帰したとも言われていますが運命は道安に厳しく、利休から受け継いだ茶道具を秀吉が没収していたものを還俗し僧侶となっていた少庵の息子の宗旦に与える名目で返してしまったのです。

これにより利休から受け継いだ茶室・茶道具などほとんどが少庵の手に渡ってしまい、実質の利休の後継は少庵に移ったのです。

これは宗旦の茶の湯の技術力や世界観が素晴らしいもので、利休の茶の湯を引き継ぐのは道安ではなく宗旦であると見知っていたとも言われていますが、本当は秀吉が利休のことを許しておらず、利休の血を引く道安への制裁だったのかもと言われています。

その後の道安は、事実上少庵が千家の跡取りとなった以上堺や京都を離れ豊前の細川忠興を頼ったとされている。

不遇のまま一生を閉じた道安ですが、茶人道安の軌跡は今も作法に残っていて金属片で灰をならしたのが金属製の灰匙(はいさじ)の始まりだったり、道安風炉と呼ばれる道安考案の道具も多く残されています。

にっこにこ太陽古美術店イメージ利休の侘び茶をさらに進化させた宗旦

10歳の時に大徳寺に喝食に出され春屋宗園の元で禅の修行し得度しています。

14歳の時利休が自刃し、23歳の時少庵の隠居に伴い千家の当主になりました。

しかし、祖父利休の悲劇を目の当たりにしていたこともあり、再三将軍からの招きに首を横に振り続け一生を終えたという。

そのため生活は困窮していたためか茶風は利休の侘び茶をさらに徹底させたもので乞食修行をしているかのようであったようで、「乞食宗旦」とも呼ばれるくらい。

そんな清貧を良しとする宗旦も子供達には優しく、就職さきを見つけるため奔走したと言われています。

二人の妻との間にできた4人の息子と1人のをもうけ、長男以外は全て茶道に携わっているのです。

 

長男 閑翁宗拙(かんおうそうせつ)・・・加賀藩前田家に放蕩が過ぎたことで勘当

次男 武者小路千家 一翁宗守(いちおうそうしゅ)・・・高松松平家の茶頭となる

三男 表千家 江岑宗左(こうしんそうさ)・・・紀州徳川家の茶頭となる

四男 裏千家 仙叟宗室(せんそうそうしつ)・・・加賀藩前田家の茶頭となる

長女 久田家・・・表千家の茶家の祖、久田宗利に嫁いだ。

にっこにこ太陽古美術店イメージ三千家の成立

このように子供達が全て茶頭になったことを機に宗旦は引退を考え、家督を三男の宗左に譲ることを決める。宗旦71歳、宗左33歳のとき。元々宗左が利休の茶風に対する世界観がズバ抜けていることから千家の跡取りとして見られていたといいます。

表千家

そこで宗旦は、千家の土地を二分し南側の母屋と不審庵と家督を宗左に譲り、宗旦自身は北側の土地に隠居所を造って四男の宗室を連れて隠居屋敷に移り住み、敷地内に今日庵を建てたという。

その当時はまだ加賀藩前田家の茶頭ではなく医者を目指していたが師匠が他界したのを機に千家にもどっていました。

 

裏千家

その後、四男の宗室が加賀藩前田家の茶頭になったのを機に宗旦は再度隠居を考えその屋敷と今日庵を宗室に譲り、又隠(ゆういん)という隠居所を建て自らの茶の湯の世界の実現する場を設けました。

その又隠も宗室に譲られたことにより、本格的に裏千家が成立されました。

裏千家の呼称は、表千家に対し通りから見て今日庵が裏にあることからこう呼ばれるようになった。

 

武者小路千家

次男の宗守は若いころ塗師の家に養子に出されたが、茶道の世界観が忘れられず千家に戻っていました。

そして、晩年の宗旦と一緒に茶会に出かけていた時に高松松平家の茶頭に抜擢されたのだが、すぐにその地位を息子に譲ってしまい、自らは京都の武者小路に菅休庵と言う庵を造って隠棲してしまう。

そして茶道三昧の日を送っていたが、兄弟からの強い勧めもあり武者小路千家を成立させたのであります。

 

このことから、利休の意思は受け継がれているが血はほとんどないように思える千家の家系でした。

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にっこにこ太陽古美術店やさしい買取担当の店主杉本 昭博
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