肉筆画の春画
初期の春画はまだ木版ではなく肉筆画であったモノを菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)によって1672(寛文 十二年・壬子)年頃に創始されたとされる。
当時の春画といえば肉筆画巻で内容も十二図十二態の12パターンの性交渉画であったものを木版画を使って絵本に仕立てた。
絵本になると、まぐあいの絵だけでは寂しすぎるし面白くない。そこに師宣は小咄の挿絵として春画を載せ、当時なかった背景も載せることで世帯風俗の一場面と表現し、内容も20ページ程度に増やし本格的な艶本が出来上がった。
このお陰で多種多様な場面を切り取った艶本が出来上がることになる。
当時は多色刷りの技術がなかったので今のようなカラーではなく墨摺り絵と呼ばれる黒一色で摺られたものに一枚一枚手書きで采色していたんです。
初期はモノクロ
初期の春画は結構地味なものが多くモノクロのモノや簡単な彩色のものだけだった。
その後、時代が進むとエロだけでなく笑いという要素も入れ艶笑画とも呼ばれていました。日本に来た外国人が春画を見て日本人って「こんなにでかいの?」ってびっくりしたとかしないとか(笑)
江戸時代はお風呂が各家庭に無く、位の高い武士の家でもみんな銭湯に行ってたし男女混浴が当たり前だったので、日本に来た外国人にお風呂で自分の嫁さんを紹介したりしてたそう。始めてきた人にしたらかなりびっくりしたけど日本人のサイズがこんなに大きくないというのを知ったことでしょう。
そんな、菱川師宣から始まった春画も江戸時代末期になると、ドイツから新しい顔料が輸入されるようになり今まで使っていた物に比べはるかに色が綺麗で一気に色合いが変わり、パッと華やかになりました。
ただ時代は西洋化に進み顔料だけでなく色んな珍しいものや新しいものが入ってきて庶民の目はそちらに移り、春画にとどまらず浮世絵自体が衰退して行く事になり明治になると全滅の状態でした。
大正時代から変化
大正時代に入ると、その頃からあったのでしょう古き良き時代の物を再度見直すという事で新しいタイプの浮世絵が出てきました。
浮世絵は元々絵師・彫師・摺師・と分業だったものすべて一人でこなす事で独特の風合いの作風で再度浮世絵ブームが来ました。
当時の作家ですと竹久夢二などが有名ですが夢二は「セノウ楽譜」という音楽の楽譜の表紙などを手がけたことでも有名です。この楽譜の表紙は木版画で摺られていてコレクターも多くいます。