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2020年04月23日

店主が好きな美人画を描いた浮世絵師10人

2020年04月23日

ゴッホやセザンヌなどヨーロッパの作家にも影響を与えたという浮世絵


その中でも美人画を書いていた浮世絵師の中で好きな作家を10人あげてみました。


 


1. 鈴木 春信(すずき はるのぶ)


享保10年(1725年) - 明和7年6月15日(1770年7月7日)江戸時代中期の浮世絵師。


錦絵は鈴木春信が一人で起こしたものではないが、一挙に多色摺版画の完成度をあげ、かつ美的世界をうみだしたことでは第一人者としていいと思う。


さらに、中間色や黒潰しのバックや不透明な色調による画面の沈潜した調和、これが春信の情緒的世界を気品あるものにした。


また、注文主、アイデアを提供したプロデューサーにあたる、文化人たちからの教養だろうが「座敷八景」のシリーズに見られるような見立て絵、古今和歌集などの古典世界と当世風俗を重ねて味わせるなど文学的要素を浮世絵に吹き込んだが、そればかりでなく、むしろ写実的に町家の婦女の生活なども素材に選んでいる。


それらの美人たちはこれまでの、例えば壊月堂風の肉体美人でもなく、西川祐信の豊満な小柄な女性たちでもなく、むしろ、中国版画的な手足の短い楚々たる女性としてえがいている。


小柄で、あくまでも愛らしくというのが春信の美意識であった。


 


2. 宮川 長春(みやがわ ちょうしゅん)


天和2年(1682年) - 宝暦2年11月13日(1752年12月18日)


この時代、壊月堂のような様式美によらず自由に当世美人をかいた宮川長春は、その生涯、肉筆画だけ残した特色ある絵師。


狩野派から差別待遇を受け、それが原因で長春の子が報復事件を起こしたこたがったが、各式を誇る狩野派でも、長春の力量を高く評価していたことはあきらか。


長春もまた自負を持ちながら、お抱え絵師に近づき、あるい狩野派のような高い位置を望んでいたかもしれない。


御用画家と町絵師の境界線は厳しいものであることも知らされていたが、町の版下絵師と自分とを引き離して考えていたこともあったと思う。


門流からは、長亀・春水・一笑・正幸など、優れた肉筆画家が出ている。


 


3. 喜多川 歌麿(きたがわ うたまろ)


宝暦3年(1753年)頃? - 文化3年9月20日(1806年10月31日)江戸時代に活躍した浮世絵師。


浮世絵の美人画は清長によって大柄な骨格、画境を得たとするなら、歌麿の出現によって、より艶麗な肉付き、体温を得たといえる。


この黄金期いたって、王朝趣味や古典趣味は交代して庶民の求める現実の美世界が前面に強く出る。


実写といえば写実だが、一方にはそういう美に対する自負なり自身も定着したということでしょう。


そして歌麿の美人画は世間の人情のほかさらに人間の本性、女性の本質的なものまでせまろうとする。


また、秘画についても、高名な歌麿だが、その代表作「歌まくら」のほか墨摺絵本の数も多い。


 


4. 鳥居清信(とりいきよのぶ)


寛文4年(1664年) - 享保14年7月28日(1729年)江戸時代中期の浮世絵師。鳥居派の祖


菱川派が版本の復刻や下絵から出発したのに対し、鳥居派は劇場に属し、看板絵や番付をかくところから出発する。


初代、鳥居清春が、もと女形役者で看板かき清元の子であったことも意味深い。


また、菱川派が江戸に始まったのに対し、鳥居派は大阪から生まれ、のちに江戸に移ってくる。


清信の描く勇壮な役者絵は、瓢箪足(ひょうたんあし)、みみず描き、と呼ばれるように、筋肉の盛り上がりを極度に誇張した表現で、その表現派的な作品はその時期の江戸歌舞伎をより印象的なものにした。


このパターンは清信の子、清倍(きよます)に至って完成し、ずっと後まで鳥居派の様式として定着した。が、やがて三代目の清満(きよみつ)、清広(きよひろ)の時代になると、芝居、役者絵ばかりでなく、美人画にもフレッシュな感覚と表現を送り込む。


それは菱川派の美人と比べ、その表現はいっそうロマンチックで、線に細味もまし、表情美もいちじるしく進歩をみせるようになる。


 


5. 菱川師宣(ひしかわもろのぶ)


元和4年(1618年) - 元禄7年6月4日(1694年7月25日)


浮世絵版画の祖といわれ代表的存在の菱川師宣はそのはじめ古版絵入本復刻の下絵や名所絵などからその道に入り、才をのばしたものでしょう。


やがて、当時の風俗描写に個性をあらわし、挿し絵は一枚摺りの独立した絵として売り出されるようになり。


その表現は簡明な描線、福々しい健康な女性が特徴で、すべてに病的なかげりがない。


その好色的な吉原絵や秘画の類もあけっぴろげでほほえましい。


この木版画として量産されるようになった好色画が、その大衆文化と以降の浮世絵に大きな影響を与えることになります。


師宣の長男、師房(もろふさ)、その子 師寿(もろひさ)、門人 師重(もろしげ)、その子 師政(もろまさ)などがその系流だが、師政(もろまさ)のの時代になると元禄期浮世絵界をおさえていた菱川派も異風となり衰えていきました。


 


6. 鳥居 清長(とりい きよなが)


宝暦2年〈1752年〉 - 文化12年5月21日(1815年6月28日)


江戸時代の浮世絵師。鳥居派四代目当主にして鳥居派の代表的な絵師。


鈴木春信と喜多川歌麿にはさまれた天明期を中心に活躍


写楽・北斎・広重と並び六大浮世絵師の一人。八頭身の美人画が世界的に高く評価されている。


鳥居清長は40年にわたり作家活動を行っており特に長身の美人画をもって一世を風靡した。


若くして鳥居派につき、役者絵や春信、重正、湖竜斎などの影響を受けながらやがて安楽の末から美人画で一家の風をなし次々に大判二枚続き、三枚続きの美人画を発表し、その位置を不動のものにした。


鳥居派のお家芸の役者絵のうえでも、写実的な舞台面、いわゆる「出語り図」を発表し、新生面を開いていいる。


 


7. 司馬江漢(しばこうかん)


延享4年(1747年)〜明和7年(1770年)司馬江漢の錦絵は春信のものと見分けがつかないくらいよく似ている。


春信の活動期はわずか5年であったが、その影響は大きく、まったく春信風の美人画を追った人々のほか、役者絵を得意とした一筆斎文調、勝川春章などにも影響を与えている。


ことに春重という筆名の司馬江漢は作品が春信と間違うくらいまぎらわしいくらいの美人画を描いているところからスタートしていた。


司馬江漢は春信の門人ではなかったが、偽作を作ったと後になって書いているのでまぎらわしいほど似ているのもうなずける。


しかし、司馬江漢はその後、オランダ版画を研究し、天命三年(1783年)一連の銅版画を発表し春信風の錦絵とはきっぱりと縁を切って独自の世界観を持つようななった。


 


8. 西川 祐信(にしかわ すけのぶ)


寛文11年(1671年) - 寛延3年7月19日(1750年8月20日)


江戸で一枚摺の版画が売り出されている頃、京阪でこれを始めず、ほとんど絵本と肉筆をかき続けた上方絵師の代表として、西川祐信は第一にあげなければならない重要な絵師です。


ブリティッシュミュージアムその他に彼の一枚摺があると言われているが、祐信の場合は、版元との関係が密であったことと、一枚絵として売る地盤が、京阪では弱かったことがあげられます。


その精力は、主として絵本にそそがれていた。またその主張としても異国風を追わず、自分の国の風俗を見直して、描くという自負に満ちた強靭な思想がバックにありました。


その女性は、この創世期の中で小柄ながら最も豊熟していて、当時の京阪さらにはえどの浮世絵ばかりでなく、後世にも大きな影響を与えていいます。


柳里恭が「絵の名人と云うは西川祐信より他になし。西川祐信は浮世絵の聖主なり」とまで絶賛していました。


 


9. 鳥文斎 栄之(ちょうぶんさい えいし)


宝暦6年(1756年) - 文政12年7月2日(1829年8月1日)江戸時代後期の浮世絵師、旗本。


寛政から文化文政期にかけて活躍、武家出身の浮世絵師らしく、清楚で慎ましやかな全身美人画で人気を博した。


鳥文斎 栄之は500どりの武士で狩野派にも学び正統的な画技を習得しながら、のちに浮世絵師になったという経歴はその作品からおのずと品格が漂っている。


歌麿の輝かしい時代と主に活動し歌麿より長く生きた鳥文斎 栄之が歌麿に対する画風を維持し拓いたことは、この時代の健康さと多面性をあらわしている。


これは黄金期が多くの個性的な美を育て育む寛容さというべき空気を持っていたことと、鳥文斎 栄之の自立した精神のつよさもあるのでしょう。


 


10. 葛飾 北斎(かつしか ほくさい)


宝暦10年9月23日(1760年10月31日)? - 嘉永2年4月18日(1849年5月10日)江戸時代後期の浮世絵師。化政文化を代表する一人


もっとも万能的で、質量ともに抜きん出た絵師は葛飾北斎をおいてないでしょう。


長寿で活動期間が長かっただけでなく、伝統的な画法、漢画的手法、洋画法等、その視野と力量も広く、肉筆、版本挿絵、錦絵、とすべてのジャンルにわたり意欲的だった。風景画を独立させた先駆者でもあり、そうかと思うと漫画的な機智、才筆、素画力を見せる。


秘画にしても一方の雄に歌麿をおけば、人は葛飾北斎の「波千鳥」を置くという具合でしょう。


また銅版画、油絵にも彼の関心は強かったのですが、ながい、その生涯ではついに果たせませんでした。


葛飾北斎につては、その業績、性格、言行、奇癖等、語ることも多いが、作品のみによっても浮世絵師の枠をはみ出した画家であったようです。


まとめ


役者絵や東海道中五三次などの風景がより美人画のようが見ていて飽きないのでいいです。


また、時代により美人の書き方も変わるというかその時代の好みが変わるのも面白いです。


| 浮世絵 |

遊びが必要

2020年04月23日

世の中のほか人生にしても遊びが必要


車のハンドルも遊びがあるから気軽に運転ができる、ハンドルに遊びがないシビアすぎてまっすぐに走られない。チョット切るだけですぐに反応し、方向が変わりその変わった方向を修正するために又ハンドルを切らないといけない。それでまっすぐに走ることが出来ずフラフラと走ることになる。


遊び心のない人は辛い


仕事にしても真面目一辺倒の人は面白みがなく皆んなから嫌われていることが多い。


それは遊びがないから、遊び心がある人は人を笑わせることを第一優先に考えていたりする。たとえ公的な書類を作るにしても内容には手を加えるわけにはいけないので、書類を留めるホッチキスの歯を赤や碧の色の付いたものにしてみるとか(公的書類だと、ホッチキスの色まで指定があるかもしれないので出来るかどうかは不明です)付ける付箋を工夫してみるとか、ちょっとした遊び心というのがいい。


そんな事に目くじらを立て文句を言う上司がいる。


大抵は仕事ができないボンクラで社内では煙たがられる存在だが、大企業になるほどそんな輩でもクビにできないのでノサバッているが大概は年の割に出世が遅い(大体30代で課長代理位に成る会社で50を超えて主任だったりする(笑))、会社もバカじゃないのでそれくらいは判るのでそんな待遇だけど、気が付かないので自分の事を評価できないと会社を逆恨みして最後まで居座り続け、定年間近でリストラになるパターンかな。若しくは定年まで行けてもその後はなく誰からも相手にされず、自分から連絡しても煙たがれれて始めて自分が嫌われていたというのを知るという。


店主の杉本もそんな上司と喧嘩して円満退社の道を選ぶ羽目になったので良く判る・・・。


遊びといえば女遊び


遊び心と言ってもあらゆる方法がありお金を掛けてする遊びもあるが掛けなくても出来る。


どちらかと言うとお金を掛けないほうが自分の頭をフル回転してどうにかしてお金を掛けず自分の思うイメージに近づけるかと考えるのが楽しい。


お金をかければ誰でも簡単にイメージ通りに出来る。そんな簡単に手に入るものより苦労して手に入れたものの方がありがたい。


お金で買ったオネーチャンより、キャバクラに通って苦労して口説き落としたオネーチャンと一夜を過ごすほうがよっぽど楽しい。


最近だと紀州のドンファンというオッサンが居るが、あの人は気に入った女性に万札が入った名詞で一晩30万円で相手してして欲しいと書いたものを渡していたそう。


それだけお金を積めばお金で転ぶ人もいたでしょうから簡単に出来る人とだけお相手できたというだけで、面白いこともありません。まぁ経験が少ない若い人ならそれでも羨ましいでしょうがそんなのソープランドと変わりません、やってる場所が違うだけで付いているものは一緒です(笑)


キャバクラで口説いてやる方が遥かに面白いし頭を使いますが、水商売のオネーチャンもパターンがあるのでそのパターンが判れば口説くのも簡単なので、自分のことを嫌っている人を口説き落とすほうが面白いですね。


人生においては遊びというものが必要であるが


オネーチャンを追いかけるのも良いかもしれないが40歳を超えるとそれも面倒くさくなってくる、所詮それほど面白いものでもないのかもしれない。60を超えてオネーチャンを追いかけているというものカッコが悪い気がする。その年になったらもっと知的な趣味に没頭して人から尊敬されているというのもいい。


確かに40位まではどれだけの女とヤッたかとか、どれだけ出世したかとか、どれだけ稼いているかがステータスになりそれが男の価値くらいに思っているが、それって嫁さんに逃げられる理由の上位でしかない。



  • どれだけの女とヤッたかなど浮気をどれだけしたと言うだけ。

  • 出生したということは家族をないがしろにした結果

  • 稼いでいるのも似たようなもの


奥さんを大事にしろというのではなく、離婚など子供に迷惑をかけるということ。


当事者同士の性格の不一致などではなく子供にとって親が離婚など悲しい思い出しかならないし、片親などもってのほか。そのためにも”お互いに”出世など望まず、どうしたら相手が喜んでもらえるかどうしたら嫌がるかを常に考えないと思う。


遊びは文化的なものにかぎる


異性に惹かれるというのも判るが、それはないものねだりに過ぎない。


男と女にとって好きななる相手というのは自分にとって一番イヤな事をする相手だという、浮気されるのが一番イヤな人にとっての相手には、超モテモテの人が配偶者になることで浮気が多くなる。ギャンブルの嫌いな人には付き合っている時にはギャンブルで勝った時に羽振りがよくて、負けたときのシミったれた時の事が目に入りません。


私にとても羽振りよく奢ってもらえるというという事しか見えないのです。


それが結婚したらモテモテだったということはマメで異性を口説くのに余念がなかったと言うことで、羽振りが良いのは仕事して稼いだ金ではなくあぶく銭なので気前よく使えただけで、そんなのは殆どなかった事に気づくのです。


結婚してから目がさめるので気付くのです。


これらは極端な例ですが、婚姻届を出して始めて相手の素性がわかるので結婚するなら好きや嫌いでするのではなくこの相手なら我慢できるという基準でしたほうが良いですね、年をとって介護をする事になったら相手のオシメを替えられるという自信がないと止めておいたほうが良いですね。


特に洗い物すらしたことがない男性は・・・。


遊びは勉強が良いでしょう


勉強って試験勉強や学校の勉強を思い出すでしょうが全くそんなことは関係ありません。


自分の興味のあることを調べるのも勉強です。


自分の住んでいる街の歴史を調べたり先祖のことを調べたり、好きな作家のことを研究したりなんでも良いと思います。


勉強って終りがありません、勉強して行けば行くほど色んな事を知り、その先に自分が何も知らないことに気がつくそうです。あることに関して調べていくとその調べている一部分に関して全く知らないことに気づき、その事をさらに追求していくことで泥沼にハマり永遠と勉強してくそうですが大体10,000時間勉強すると一端の先生になれるくらい知識がつくそうなのでそれくらい調べてみるのも面白いですね。


美術品の価値は自分が決める


世間の常識から言うと人気のあるモノは高額になるのですが、どちらかと言うと端物とよばれるガラクタを使って自分独自の世界観を作り上げるというのも面白い。


例えば蓋のない茶瓶を見つけたら、それに合う蓋を探して合せてオリジナルの茶瓶を作ってみる、その逆もしかり。


茶道具の銘々皿は大体が5枚一組だが、基準を決めて5枚バラバラな皿で銘々皿を作るなどお金を掛けないで楽しむ方法はいくらでもある。


そもそも茶道などそうやって独自の美の基準を持って茶会を開催していたのであり、幾ら千利休の教えといっても一期一会の精神から言うと違う気がする。


世間一般の常識などに囚われず自分の気に入った美術品が一番美しいいのであり気にする必要もないでしょう。

| 骨董品 |

利休から三千家(さんせんけ)設立まで

2020年04月23日

まずは利休の師匠 武野 紹鷗(じょうおう)


茶道は鎌倉時代ごろ日本に入っていたのではと思われまれ、茶道の文化はそれなりに広まっていたのですが、武士や公家など貴人が主でしきたりや方法などもバラバラだったところを、一つの文化まで完成させてのが千利休ですので、そこからどうやって今に至るかをまとめてみました。


まず、利休が紹鷗に弟子入りした時の逸話が、弟子入りをお願いに行った時入門テストとして庭の掃除を命ぜられました。


その時利休は、綺麗に落ち葉などを掃き取りゴミ一つ無い状態になったところで、徐ろに木を揺さぶりました。


それを見た紹鷗は「どうして綺麗になった庭にまた落ち葉を落とすのか」と問うたそうです。


すると利休は、「確かに落ち葉が無い方が綺麗ですが、そんなのは自然では無い」だから一度穿いた庭に落ち葉を落として自然な庭にしましたと答えたらしい。


その感性を感じ取った紹鷗は即座に弟子入りを許したと言われています。


なかなか凡人の私たちにはわからない感性ですが、それだけの人だったので後世に名前が残っているのでしょう。


そんな利休には二人の息子がいたと言われております。


一人は先妻・宝心妙樹との間に生まれた道安


二人目は後妻・宗恩の連れ子の少庵で、二人は1546年生まれの同級生だったそう。


利休の再婚は57歳の時でその時、道安と少庵は32歳の時なっていたので、道安にしてみれば複雑な心境だったでしょう、その道安の名前は利休の茶事の記録にないことから、一時期家を出ていたと考えれられています。


時は経ち、利休は秀吉の命から自害することになるのですが、再婚したことで継承関係が複雑になったのですが両方の息子に親として愛情をうまく表現していました。


利休の自害する前、利休遺偈(りきゅうゆいげ)と言われる遺書にはこう書かれていたそう。


元々、兄弟の軋轢を避けるため少庵を京都紫野の前の大徳寺門前に移り住まわせていたので、この家屋敷は少庵に譲りその他の財産は道安に譲るというどちらの息子の立場も明確にし、またどちらの息子にも親としての愛情をしめした。


これが堺千家と京千家の始まりとなったのです。


堺千家


利休は元々大阪の堺の人なので息子の道安は堺に住んでいました。


利休の自刃後、四散して道安は、飛騨高山の金森長近の元に身を寄せたた言われたり、四国や九州を放浪していたとも言われているがその真相は明らかでく、苦労していたことには違いない。


道安は一族の本家筋ですが自らの運命に翻弄されていたのと、自身に子供がいなかったのもあり道安の死後は絶えてしまった。


京千家


利休に京都紫野の大徳寺前の門前に屋敷を作ってもらいそこに移り住んだのが少庵。


少庵は会津若松の蒲生氏郷の元に身を寄せ、茶頭として茶道三昧の日々を送っていたという。


また結婚もしており、妻は利休の娘とも言われています。そして二人の息子も生まれその中の一人が宗旦とったのです。


何年か経ち秀吉から放免を受けることで道安・少庵とも京都と堺に戻ってきました。


その後、道安は秀吉の茶頭に復帰したとも言われていますが運命は道安に厳しく、利休から受け継いだ茶道具を秀吉が没収していたものを還俗し僧侶となっていた少庵の息子の宗旦に与える名目で返してしまったのです。


これにより利休から受け継いだ茶室・茶道具などほとんどが少庵の手に渡ってしまい、実質の利休の後継は少庵に移ったのです。


これは宗旦の茶の湯の技術力や世界観が素晴らしいもので、利休の茶の湯を引き継ぐのは道安ではなく宗旦であると見知っていたとも言われていますが、本当は秀吉が利休のことを許しておらず、利休の血を引く道安への制裁だったのかもと言われています。


その後の道安は、事実上少庵が千家の跡取りとなった以上堺や京都を離れ豊前の細川忠興を頼ったとされている。


不遇のまま一生を閉じた道安ですが、茶人道安の軌跡は今も作法に残っていて金属片で灰をならしたのが金属製の灰匙(はいさじ)の始まりだったり、道安風炉と呼ばれる道安考案の道具も多く残されています。


利休の侘び茶をさらに進化させた宗旦


10歳の時に大徳寺に喝食に出され春屋宗園の元で禅の修行し得度しています。


14歳の時利休が自刃し、23歳の時少庵の隠居に伴い千家の当主になりました。


しかし、祖父利休の悲劇を目の当たりにしていたこともあり、再三将軍からの招きに首を横に振り続け一生を終えたという。


そのため生活は困窮していたためか茶風は利休の侘び茶をさらに徹底させたもので乞食修行をしているかのようであったようで、「乞食宗旦」とも呼ばれるくらい。


そんな清貧を良しとする宗旦も子供達には優しく、就職さきを見つけるため奔走したと言われています。


二人の妻との間にできた4人の息子と1人のをもうけ、長男以外は全て茶道に携わっているのです。


 


長男 閑翁宗拙(かんおうそうせつ)・・・加賀藩前田家に放蕩が過ぎたことで勘当


次男 武者小路千家 一翁宗守(いちおうそうしゅ)・・・高松松平家の茶頭となる


三男 表千家 江岑宗左(こうしんそうさ)・・・紀州徳川家の茶頭となる


四男 裏千家 仙叟宗室(せんそうそうしつ)・・・加賀藩前田家の茶頭となる


長女 久田家・・・表千家の茶家の祖、久田宗利に嫁いだ。


三千家の成立


このように子供達が全て茶頭になったことを機に宗旦は引退を考え、家督を三男の宗左に譲ることを決める。宗旦71歳、宗左33歳のとき。元々宗左が利休の茶風に対する世界観がズバ抜けていることから千家の跡取りとして見られていたといいます。


表千家


そこで宗旦は、千家の土地を二分し南側の母屋と不審庵と家督を宗左に譲り、宗旦自身は北側の土地に隠居所を造って四男の宗室を連れて隠居屋敷に移り住み、敷地内に今日庵を建てたという。


その当時はまだ加賀藩前田家の茶頭ではなく医者を目指していたが師匠が他界したのを機に千家にもどっていました。


 


裏千家


その後、四男の宗室が加賀藩前田家の茶頭になったのを機に宗旦は再度隠居を考えその屋敷と今日庵を宗室に譲り、又隠(ゆういん)という隠居所を建て自らの茶の湯の世界の実現する場を設けました。


その又隠も宗室に譲られたことにより、本格的に裏千家が成立されました。


裏千家の呼称は、表千家に対し通りから見て今日庵が裏にあることからこう呼ばれるようになった。


 


武者小路千家


次男の宗守は若いころ塗師の家に養子に出されたが、茶道の世界観が忘れられず千家に戻っていました。


そして、晩年の宗旦と一緒に茶会に出かけていた時に高松松平家の茶頭に抜擢されたのだが、すぐにその地位を息子に譲ってしまい、自らは京都の武者小路に菅休庵と言う庵を造って隠棲してしまう。


そして茶道三昧の日を送っていたが、兄弟からの強い勧めもあり武者小路千家を成立させたのであります。


 


このことから、利休の意思は受け継がれているが血はほとんどないように思える千家の家系でした。

| 茶道具 |
プロフィール
管理者:代表取締役鑑定士:杉本昭博

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